小泉セツってどんな人??朝ドラばけばけで注目、小泉八雲と小泉節子の絆

明治時代の国際結婚って簡単じゃなかったんじゃないかな〜、そう思いませんか?異文化の壁、言語の違い、家族や社会からのプレッシャー…。

それらを乗り越えて、異国からやってきた作家・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と生涯をともにした日本女性がいたんですね。

その名は「小泉セツ」。最近では、朝ドラばけばけで注目され、「小泉節子」として改めて話題になっている彼女ですが、実はその人生、私たちが想像するよりもはるかに力強く、そして深い愛に満ちたものでした。

この記事では、そんな小泉セツの人物像に、迫っていきます。




小泉セツって、どんな人?? 生い立ちから64歳までの歩み

小泉セツさんって、とても素敵な女性だったんですよ。

彼女が生まれたのは1868年。ちょうど日本の社会が大きく変わる、大変な時代でした。

もともと武士の家柄で誇り高かったご実家も、時代の波には逆らえず、だんだんと生活が苦しくなっていったそうです。

そんなセツさんの人生が大きく動き出したのは、1891年のこと。

松江に英語の先生としてやってきた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と出会います。セツさんは、一度結婚して離婚を経験していました。

当時のことを考えると、それはとても勇気のいることだったはずです。でも、八雲の身の回りのお世話をするうちに、二人はお互いに惹かれ合い、ご夫婦として歩んでいくことになります。

セツさんは、日本の古い物語や文化にとても詳しくて、彼女が八雲に語って聞かせたお話の数々は、八雲の作品に大きな影響を与えたと言われています。

ちょっと神経質なところもあった八雲を、セツさんはいつも穏やかに、優しく支えました。そして、64歳で亡くなるまで、家族を大切に守り抜きました。

派手な生き方ではなかったかもしれませんが、セツさんの人生には「強く、しなやかに生きる」ことの尊さが詰まっています。

時代の変化に翻弄されながらも、愛する人を支え、家族を慈しんだ彼女の姿は、私たちに温かい勇気をくれるように感じますね。



小泉セツって、どんな人?? 松江での出会いと小泉八雲との国際結婚

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、ギリシャ生まれ、イギリス育ち、そして日本にたどり着いた作家。

彼が日本の文化や心に深く惹かれていった背景には、セツの存在がとても大きかったように私は感じます。

二人の出会いは、1891年2月初旬頃。ハーンが英語教師として松江に赴任した際、セツは彼の身の回りの世話をするために住み込みで働くようになりました。

それがきっかけでふたりは惹かれ合い、やがて夫婦としての生活をスタートさせます。

物語好きだったセツは、やがてハーンの“語り部”として、またリテラリーアシスタントとして彼の創作活動を力強く支えていきました。

怪談や奇談といった八雲の作品の多くは、セツが語って聞かせた話を元にしているとも言われています。

ハーンは「この本、みなあなたのおかげで生まれましたの本です。世界で一番良きママさん」と妻への感謝を忘れずに語っていたそうです(小泉一雄『父小泉八雲』より)。

ふたりの間には、独自の「ヘルン言葉」と呼ばれる特有の日本語も存在し、言語の壁を超えてしっかりと心を通わせていた様子がうかがえます。

文化も言葉も違う中で、ここまで深い信頼関係を築けるなんて、本当にすごいことだなと私は感じました。

リテラリーアシスタントとは、主に作家や著者の活動をサポートする専門職です。



小泉セツって、どんな人?? 熊本・神戸・東京を巡る家族の足跡

八雲の仕事の都合で、セツは松江から熊本、神戸、そして東京へと移り住みます。

熊本

最初の転居先・熊本では、1891年11月に移住。八雲は地元の高等中学校で教鞭をとり、長男・一雄が誕生します。

セツもまた、夫との意思疎通をより深めるために英語の習得を試みますが、結局「ヘルンさん言葉」でのやりとりが二人にとって一番自然な形となりました。

神戸

1894年には兵庫県神戸市に転居し、八雲は『知られぬ日本の面影』を発表して高い評価を受け、著述に専念するようになります。

この時期、セツは書物を読み、それを独自の言葉で語り直して伝えるなど、執筆の素材提供にますます積極的に関わるようになったそうです。

読書家であり、物語好きだった彼女にとって、これはやりがいのある仕事だったのではないでしょうか。

1896年、八雲は兵庫県知事および島根県知事の承認を得て正式に日本に帰化し、小泉家への外国人入夫として「小泉八雲」となりました。

東京

その後まもなく、夫婦は東京・市谷へ転居します。東京でもセツは民話や書物から得た情報を語り伝える語り部として、八雲の創作に寄り添いました。

夫婦の間にはさらに二男一女が誕生し、1902年には西大久保へ移転。しかし、その頃から八雲の体調が徐々に悪化し、セツが36歳の時、1904年に彼はこの世を去ることとなります。

こうしてみると、セツはまさに「物語のある人生」を生き抜いた人。地に足のついた暮らしの中で、波乱の時代と文化の違いを受け止め、家族を支えながら、自分自身も一つの物語を紡ぎ続けたのだと私は思います。


小泉セツって、どんな人?? 小泉節子が語った、「思い出の記」

節子自身が綴った回想録『思い出の記』には、小泉八雲さんと暮らした日々を振り返る内容がつづられています。

本書で描かれる八雲は、正直で無邪気で、少し意地っ張りなところもある、とてもユニークな人物で、読んでいて思わず笑ってしまうようなエピソードも多く含まれています。

そんな八雲を温かく見守り、ときに支え、ときに冗談を交えて接する節子さんの人柄にも、私はとても惹かれました。

何より素敵だと感じたのは、そこに描かれている夫婦の関係です。

文化も言葉も違うふたりが、心を寄せ合いながら築いてきた時間の積み重ね。その深さと温かさに、読んでいて何度も胸がじんわりと熱くなりました。

「日本人よりも日本を愛した」と言われる八雲が、日本の精神が薄れていくことを誰よりも憂いていたというエピソードも印象的で、節子さんの目を通して見る「ヘルンさん」は、一人の人間としての魅力に満ちています。

節子さんの語りは、どこかユーモアがありながらも、夫への深い愛と尊敬がにじみ出ていて、読みながら「こんな夫婦になれたらいいな」としみじみ思いました。

八雲という“偉人”ではなく、一人の夫・父・人間としての姿を描いた『思い出の記』は、静かだけれど心の奥に届く、愛の詰まった一冊です。


小泉セツって、どんな人?? 小泉節子まとめ

小泉セツの生涯は、明治という激動の時代を背景に、家族を守り、文化の架け橋となった女性としての強さと優しさが際立つもので、小泉セツという人物を知れば知るほど、心が温かくなりました。

決して派手な人生ではないけれど、「誰かを支える」ということの尊さ、「静かな強さ」を体現した生き方に、深く心を打たれます。

朝ドラで注目が集まったことで、多くの人がセツという女性に出会えたのは、とても素敵なことだと私は思います。

これからもこうした歴史の中の名もなきヒロインたちに、もっと光が当たる世の中になってほしいなと私は思いました。

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